
後漢末期の中国、民衆は極度の貧困と苦難に苦しみ、朝廷の腐敗は救いようのない状況に達していました。
このような環境で「蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし」というスローガンのもと、多くの民が黄巾軍に集結し、社会の変革を求めて立ち上がりました。
三国志の時代の始まりともいえる「黄巾の乱」は、単なる反乱以上のものとして歴史に刻まれ、英雄たちの時代を切り開く契機となりました。
太平道と張角 – 信仰が生んだ反乱の火種
黄巾は決して強盗集団などではなかった。
三国の故事の中では黄巾軍のことを黄巾賊と呼んでいるが、それは適切な呼び方ではない。
黄巾というのは、じつは人々が苦しい生活を送っていた後漢末期にはじまり、十数年をかけて発展した「太平道」と呼ばれる宗教団体だった。
つまり政府に圧迫され、生活に困った民衆が反抗せざるをえなくなった結果、黄巾が誕生したのだ。
黄巾の乱を引き起こしたのは、張角を筆頭とする「太平道」という宗教組織でした。
彼らは道教の一種で、張角が唱える治療の奇跡や平和な世界を求め、多くの農民が信仰しました。
張角は農民に「符水」と呼ばれる呪術的な水を与え、彼らは張角を「神」のように信じたと伝わっています。
そして張角はいたるところで「あやまちをくいあらためさえすれば、あなたの病気は治る」という教えを広めたので、信者の数はしだいに増え、数十万人にもなった。
この勢力は民衆の間で広範囲にわたって組織的な力を持つことになりました。反乱の根底には、彼らが体験した飢饉や天災への絶望と、当時の朝廷の無力さがありました。
「黄天立つべし」 – 反乱のスローガンと信仰の意義
多くの信者を得たとはいえ、みな貧しく、食べ物にも事欠くほどで、そうした人々が集まれば反乱を起こすのが当然といえるような状態だった。
そこで張角は陰陽五行説にもとづいた、「蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし」というスローガンを掲げ、腐敗した後漢を「蒼天」として捉え、自分たちを新しい「黄天」として掲げ、社会の再建を目指しました。
このスローガンは、陰陽五行説に基づいており、木火土金水の五行が循環するという考えによれば後漢の「火徳」を表す赤に対し、黄巾軍は「土徳」を意味する黄色の頭巾をかぶることで土徳である彼らがおとろえつつある火徳、つまり漢朝にとって代わるべきだと主張し、自らの正統性を示したのです。
こうした教義と象徴によって、彼らは広く民衆の支持を集めることに成功しました。
張角の計画と反乱の挫折
張角は各地の信者に対して、挙兵の日を示す「甲子」の印を役所の門に刻むよう命じ、蜂起の準備を進めていました。
しかし、内部からの密告によって計画は早々に露見し、やむを得ず予定を繰り上げて反乱を起こすことになりました。
彼は自分を天公将軍と呼び、ふたりの弟の張宝、張梁はそれぞれ地公将軍、人公将軍と称した。
最初、黄巾軍は破竹の勢いで各地を攻めたので、都の人々はふるえあがった。
一ヵ月以内に全国の八州二十八郡におよぶ地方政府はすべて攻撃された。
放火や略奪といった暴動もひんぱんに起きた。
だがその後、皇甫嵩、朱儁、盧植らがひきいる政府軍に反撃されると、勢力はたちまちおとろえ、黄巾軍はちりぢりになった。
結果、張角兄弟の黄巾軍は後漢の軍に激しく抵抗しましたが、各地の戦闘において次第に劣勢となり、最終的には皇甫嵩や朱儁らの奮戦によって鎮圧される運命にありました。
黄巾の乱の終焉と残党の抗争
張角が病死し、それにつづいて張梁、張宝らも皇甫嵩の追撃を受け、戦死した。
また南陽の黄巾軍も朱儁によって制圧された。
張角兄弟がひきいる黄巾の主力部隊はわずか九ヵ月ほどのあいだに、政府軍の攻撃によって全滅してしまった。
黄巾軍の主力が敗れると、多くの残党は散らばりながらも各地で反乱を続けました。
特に張飛燕率いる一派は百万人に達する規模となり、曹操に降伏するまでの約20年間、彼らは反政府活動を続けていたのです。
このような大規模な民衆反乱が鎮圧されたことで、後漢は朝廷の権威を失い、豪族が支配する群雄割拠の時代が訪れます。
結果的に、黄巾の乱は後の三国時代の幕開けを導いたと言えるでしょう。
まとめ
黄巾の乱は、民衆が歴史を動かす力を持つ可能性を示した反乱でした。
この一揆が成功することはありませんでしたが、後漢王朝の崩壊を加速させ、三国時代の英雄たちを歴史の舞台に押し上げました。
もし黄巾軍が勝利していたなら、中国の歴史はどのように変わっていたのでしょうか。
その「もし」を想像しながら、歴史の転換点に思いを馳せてみるのもまた興味深いものですね!!