
三国時代に活躍した周瑜は、その政治手腕や武勇により多くの人々から尊敬されていました。
彼は孫権の腹心であり、赤壁の戦いにおいてもその英雄的な活躍で知られています。そんな周瑜が、天下を二分するという野望を抱いていたことはあまり知られていません。
しかし、その計画は叶わず、彼は途中で命を落とすことになりました。この記事では、周瑜という武将にフォーカスし、天下二分の計を中心に解説していきます。
知勇兼備の美周郎
当時、周瑜はまだ若く、美しい容貌をしていたことから、呉の兵士たちから美周郎と呼ばれるようになりました。
また、彼の聡明さや決断力にも感銘を受けた人々からは、美周公と呼ばれることもありました。
美周郎という愛称は、彼の容姿だけでなく、その人物像や行動に対する尊敬の念を表すものでもありました。
彼は、度量が大きく、自分の利益よりも呉の発展や孫策のために尽くすことを優先しました。そのため、後世に彼を英雄的な人物として讃えることになりました。
美周郎と呼ばれる逸話は、周瑜の人物像を理解する上で重要な一面です。
彼は、その容姿だけでなく、その英雄的な行動や精神によって、多くの人々から敬意を集め、今でも多くの人々から愛されています。
盟友との『断金の交』
当時、呉の状況は不安定で、兵糧不足が深刻な問題となっていました。
そこで、周瑜は自らの所有する貴重な金銀の装飾品を切り売りして、兵糧調達のための金を調達しようと決めました。この金は、孫策のために兵糧を買い付けるために使われました。
周瑜は自分の利益よりも、呉の発展や孫策のために尽くすことを優先した人物であり、その精神は後世に多大な影響を与えました。
また、彼の度量や器の大きさが垣間見えます。彼は、自分自身の財産を手放し、自分の身を捧げてまで、孫策や呉のために尽くしました。
周瑜と孫策は金を断ち切るほどに強い結びつきという意味で「断金の交」と言われ、孫策との深い信頼関係や、呉の歴史的背景と深く関わっています。
孫策の死後、呉は多くの争いや後継者問題に見舞われ、権力争いが絶えない状況となりました。周瑜は、呉の安定と発展を願い、亡き孫策の遺言に従い、後継者の孫権に尽力することになります。
周瑜と孫策の断金の交は、中国の歴史的な逸話として、多くの人々に愛されています。
周瑜は、その後も呉の発展に尽力し、赤壁の戦いなど、多くの戦いで活躍しました。彼の度量や器の大きさ、そして、呉の発展のために尽くした精神は、今でも多くの人々から称賛されています。
夢の天下二分の計
周瑜は赤壁の戦いで曹操を破った立役者として有名です。彼は、呉が中華の南半分を支配し、北を支配する魏に対抗するための策を考えていました。その構想が天下二分の計とよばれています。
この策を実現するために、まず彼は劉璋が治める益州を攻略することを考えました。
彼は天下二分の計を実行するために、益州攻めを進めていましたが、その最中に病没してしまいました。
益州は劉備によって後に攻略されましたが、彼が健在であれば実現できた可能性は十分にあったと考えられています。
呉が先に益州を平定し、膨大な軍勢を率いれば劉備が第三勢力として独立することもなく、呉は曹操にも対抗できる勢力を作ることができたかもしれません。
その後、劉備と同盟もしくは傘下に入れ、荊州と益州を含む呉の支配する勢力と北を支配する曹操とで中華を二分する構想でした。
その後、漢中を治めていた張魯を併合し、独立勢力であった西涼の馬騰、馬超親子と手を組んで、共に曹操を攻め、勝利することで、呉は天下のほぼ大半を手に入れることができたでしょう。
しかし、彼の夭折によって、その壮大な計画は実現されることはありませんでした。
まとめ
周瑜は、文化人でもありました。彼は書道や音楽、詩歌などにも造詣が深く、多くの文人たちと交流を持っていました。そのため、文化的な面からも多くの人々から尊敬を受けていました。
しかし、一方で周瑜は、非常に短気であったと言われています。その短気さが、彼の命を落とすきっかけとなったとも言われています。
歴史は「もし」の連続であり、周瑜が益州攻略を実行した場合でも、それが成功したとは限りません。
それでも、周瑜の「天下二分の計」は、その優れた戦略と計画性から、後世に多大な影響を与えたと言えます。
今でも、多くの人々が周瑜の策略や戦略に学び、自分の人生やビジネスに応用していることでしょう。
このように、歴史上の人物や出来事は、その後の社会や人々の考え方に影響を与え続けています。
私たちは、過去の出来事や人物に学び、自分たちの未来を切り開くために役立てることができるといえます。