孫権【仲謀】

「曹操の影が迫る!孫権、決断の時──赤壁前夜の攻防」




三国志の時代、曹操の名を口にすれば、まるでその瞬間に彼が現れるかのように感じられたものです。​

これは日本のことわざ「噂をすれば影」を彷彿とさせます。​

今回は、三国志の中でも特にドラマティックな場面、赤壁の戦いの序章を熱く語りたいと思います。

諸葛亮、孫権を激昂させ、戦への道を切り開く

諸葛亮は、劉備と手をたずさえ、共に曹操の大軍に対抗しようと、必死に孫権を説得した。

なかなか孫権が決心できずにいたとき、まさにうわさの主、曹操から一通の手紙が届いた。

『八十万の水軍が出発し、荊州を占領したので、今度は呉の地で孫権といっしょに狩りがしたい』と書いてあった。

「いっしょに狩りがしたい」といえば聞こえはいいが、その真意は、呉を攻撃するぞ、というおどしだ。

事態がさし迫ったと見た諸葛亮は、曹操と戦う気がないのなら、さっさと降伏してしまった方がいい、と言って、わざと孫権を刺激した。

すると思惑どおり、孫権はたちまち激怒して、「曹操などに呉の国土と十万の優秀な兵を渡すものか」と放った。  

そこで諸葛亮は孫権に、曹操の大軍をおそれる必要はないと告げた。

曹操軍は遠路はるばるやってきて、すでに疲れきっているうえに劉備を追って一昼夜で三百里も走っている。

諸葛亮は曹軍の状態は「強弩の末」のようなものだと言った。

つまり、強い弓から放たれた矢も最後には力がなくなってしまうのと同じように、曹操軍もすでにいきおいを失っているからおそれることはないと説いたのだ。

また諸葛亮は、「北方の人間は水上戦に慣れていない」と分析した。

曹操軍は北方から大船団を連れてやってきたが、水上での戦いが得意ではなく、戦闘力はそれほど高くないはずだと考えていた。  

もちろん曹操も天下無敵のスーバーマンではないが劉備と手を結ばないかぎり、孫権に勝ち目はないと考えた。

しかし、曹操に追われて命からがら逃げのびたという劉備に、いったいどれほどの力があるのか。孫権はその点に不安を感じていた。

そこで孫権は諸葛亮に、「あなたの言っていることは正しい。だが、あなたたちはさんざんに負けたばかりで、曹軍に対抗する力などないだろう?」と言った。

「そんなことはありません」と諸葛亮は答え、さらに「わが軍はたしかに長坂で敗北して、ちりぢりになりました。しかし兵は続々ともどっていますし、関羽が連れてきた水軍を加えれば一万人、劉琦の部隊も一万人います。呉軍から数万の兵と勇猛な武将を派遣してもらえれば、かならず曹操をうち負かすことができます。曹操が北方に帰り、孫・劉の勢力が強まれば、鼎(三つの足がある器)の足のように三つの勢力が分立するようになるでしょう」と説いた。  

降伏か徹底抗戦か?孫権を悩ませる家臣たちの意見

諸葛亮の言い分をもっともだと認めはしたが、曹操に抵抗するか降伏するかは国の存亡にかかわる重大な問題だ。

そこで孫権は武官と文官を集めて会議をひらいた。

すると、だれもが口々に「おとなしく降伏して曹操軍を受け入れるべきだ」と主張した。

その代表格は張昭だった。彼は、「曹操は朝廷を支配し、皇帝の名を借りて指令を下しているので、曹操にさからえば朝廷にそむくことになり大義名分がたたない」と言った。

江東の政権はこれまで長江をたてに敵の侵入を防いできたが、荊州を手に入れ、劉表が訓練した水軍と千隻を超える大型の軍艦を配下におさめた曹操が、川を下り、水陸の両方から同時に攻めてきたら、呉に勝算はない。

むだに抵抗しない方が、傷が浅くてすむ、というのが張昭たちの意見だったのだが魯粛は、初めから終わりまでひとことも口をきかずだまっていた。

孫権が厠に立つと魯粛がついてきた。孫権は軒下で、魯粛の手をとって、「おまえはどう思う?」とたずねた。

魯粛はきっぱりと、「多くの者が降伏をすすめていますが、降伏すれば、この先あなたの生きる道はないでしょう。私のような立場の者は曹操の大軍を受け入れても問題はありませんが、あなたはちがいます。私が曹操につけば、曹操は私を故郷に帰して役職を与え、それほどひどい目にあわせることはないでしょう。しかし、曹操があなたにどんな役職を与えるというのです? すぐに決断すべきです。彼らの意見にまどわされてはなりません」と言った。

孫権も、「私の考えとまったく同じだ。みなが降伏を主張するのでがっかりしていた」とうち明けた。

周瑜の登場、赤壁の戦いへ向けて動き出す

そこで孫権は、軍の訓練で会議にいなかった呉の軍師・周瑜を呼びもどした。

もどってきた周瑜は降伏に反対した。

しかも彼は、曹操と朝廷の関係をまったく気にかけてはいなかった。

そして「曹操は漢の丞相を名乗っていますが、本当は漢王朝を苦しめる悪党です。北方の情勢はまだ不安定で、馬超と韓遂が函谷関の西に兵を置き、曹操をおびやかしています。北方人は馬に乗っての戦いが得意なのに、曹操は船を使い、長年水郷で暮らしてきた江東人と戦おうとしています。これも曹操にとっては不利です。また、いまは冬の真っただ中で、馬に与える飼葉も不十分です。それに、曹軍が南方に進めば、土地や水になじめない兵士たちの中に、病にかかる者も多いでしょう。軍事的に見て、曹操は多くのあやまちを犯しています。かならず失敗するでしょう」と言った。

たしかに周瑜の言うとおりだと孫権は思った。

そして孫権は「曹操という悪党は、昔から漢を滅ぼしてみずから皇位につこうとたくらんでいたが、袁紹・袁術・呂布・劉表と私にはばまれてきた。いま、この英雄たちは死に、残っているのは私だけだ。私は断固としてあの悪党と戦うぞ」と言うと、刀をぬいて、机をたたき切り、大声で叫んだ。

「今後、私に降伏をすすめる者は、この机のようになるだろう」。会議は解散した。  

その夜、周瑜は孫権を前に、両軍の兵力を分析した。「みな、曹操の手紙に書かれていた八十万の大軍という言葉におそれをなして降伏を主張しますが、曹操の言葉が本当かうそかをたしかめようとはしていません。実際の状況にもとづいて計算すると、曹操の兵力は、せいぜい十五万から十六万人といったところです。しかも戦いは長い期間におよんでいますから、みな疲れはてているでしょう。新たに加わった劉表の部隊も多くて七、八万人ですし、心の底から曹操にしたがっているわけではありません。ですから、曹操軍は人数ではまさっていますが、おそれることはありません。私に五万の兵をあずけてくだされば、曹操をうち破ってみせます」。

諸葛亮、魯粛、周瑜らの説得を受けて、孫権はついに劉備と手を組んで曹操を迎え討つ決意をかためた。

そして三万の水軍を集め、周瑜と程普をそれぞれ左都督と右都督に任命した。

魯粛は賛軍校尉(将軍の参謀役)として、戦略を組み立てる役割をになった。

不足していた装備や食糧、兵力もしだいに補われ、強化されていった。

孫権は周瑜に、「曹軍に勝てると見たら、ただちに決断をしろ。勝てぬと見たら、私のところへ逃げてこい。私が曹操と戦う」と告げた。戦いの火ぶたが切られようとしていた。

まとめ

この決断が、歴史に名高い「赤壁の戦い」へとつながっていきます。

孫権が諸葛亮や魯粛、周瑜らの進言を受け入れ、曹操と戦うことを決意したことは、中国史において重要な転換点となりました。

もしこの時、孫権が降伏していたら、三国時代は訪れず、曹操の天下統一が実現していたかもしれません。

戦局を冷静に分析し、曹操軍の弱点を見抜いた諸葛亮と周瑜の戦略、そして何よりも、最後には自らの信念で決断した孫権の勇気が、呉の存続と三国時代の成立を可能にしたのです。

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