
後漢王朝、栄華を極めた帝国の影に、暗黒の時代が静かに幕を開けていた。
権力に群がる者たち、腐敗にまみれた政治、そして希望を捨て去った人々。
しかし、そんな絶望の中で、一筋の光のように立ち上がろうとする者たちがいた。
彼らは命懸けで正義を貫き、腐敗した朝廷に抗議の声を上げた。
しかし、彼らの前に立ちはだかったのは、権力と欲望に狂った者たちによる容赦ない弾圧の嵐。
それが、後漢の歴史を揺るがす「党錮の禍」と呼ばれる事件であった。
清流:高潔の士
漢の武帝は儒教を重視し、儒家の経典を教える官職をもうけ、太学(官僚を養成するための最高の教育機関】を創立した。
知識人たちは人々に尊敬され、社会の中で高い地位を得た。
後漢の時代になると儒教の影響力はさらに強まり、多くの知識人たちのあいだでは、名声や物欲にとらわれるべきではないという考え方が広がっていった。
後漢時代、儒家官僚と外戚の勢力はますます強まっていった。
中でも外戚を助けた功績で朝廷に官僚として入った者は、宦官勢力に対抗して、ひとつの党派を形成するようになった。
彼らは儒教をとうとぶ高潔な儒家官僚と見なされ、「清流」と呼ばれた。
第一次党錮の禍:高潔な魂を葬る陰謀
桓帝の時代、政治を牛耳っていたのは宦官たち。
彼らは皇帝を操り、私腹を肥やすことにしか興味がなかった。
そんな腐敗に抗議の声を上げたのが、李膺や陳蕃といった清廉潔白な士大夫たち。
彼らは「清流」と呼ばれ、民衆から尊敬を集めていた。
しかし、宦官たちは彼らの存在を脅威と捉え、巧妙な罠を仕掛けた。
李膺は、宦官の弟が不正を働いたことを告発し、死刑に処した。
これが宦官たちの怒りを買うきっかけとなった。
彼らは李膺を陥れるために、彼と太学生たちが結託して朝廷を批判していると皇帝に讒言した。
皇帝は宦官たちの言葉に惑わされ、李膺や陳蕃たちを逮捕・投獄。
清流派は朝廷から排除され、後漢王朝は暗闇にさらに深く沈んでいった。
第二次党錮の禍:血に染まる粛清
桓帝の死後、竇皇太后が政権を握り、父の竇武を大将軍として重用した。
竇武は清流派を復権させ、宦官たちの勢力を弱めようと試みた。
しかし、宦官たちは再び反撃。竇武を自殺に追い込み、陳蕃を殺害した。
そして、皇帝の権威を盾に、もはやおそれるものがなくなった宦官たちは、再び「清流」党派の人々を弾圧した。
李膺や杜密ら百人以上の清流派の人々は投獄され、多くが命を落とした。
罪のない者までもが巻き添えとなり、六、七百人もの人々が流刑や禁固刑を受けた。
後漢王朝は恐怖と暴力によって支配され、かつての栄光は見る影もなくなってしまった。
黄巾の乱と大赦:希望の光
中平元年(184年)、後漢末期に黄巾の乱と呼ばれる大規模な農民反乱が勃発した。
皇帝は、清流派が反乱軍と結託するのではないかと恐れ、彼らへの大赦(ほとんどの罪人を許すこと)を決断した。
しかし、それは恐怖政治の終焉ではなく、一時的な妥協に過ぎなかった。
まとめ
党錮の禍は、後漢王朝を大きく揺るがした事件であり、その後の混乱と衰退の序章となった。
清流派の悲劇は、権力者の腐敗と暴力がいかに国家を滅ぼすかを示す教訓として、歴史に深く刻み込まれている。
彼らの命懸けの正義は、闇に光を求めた勇敢な魂の証であり、未来への希望の灯火として永遠に輝き続けるだろう!!