
三国志の物語の中でも、もっとも波乱に満ちた局面のひとつが「劉備の益州攻略」です。
曹操が仕掛けた「声東撃西の計」から始まり、益州牧・劉璋をめぐる陰謀、龐統の死、張飛と厳顔の名場面、そして最終的に劉備が成都を手に入れるまでの道のり――。
この一連の流れは、単なる戦の記録ではなく、人の思惑、忠義、そして時代のうねりが交錯するドラマそのもの。
今回は、その益州争奪戦を感情豊かに振り返りながら、劉備が「三国志の覇者」として本格的に名乗りをあげるまでをたどっていきます。
曹操の策略が生んだ、絶好のチャンス
物語の始まりは、天下の覇者曹操が仕掛けた巧妙な罠からでした。
曹操は、声東撃西の計という、東を攻めると見せかけて西を攻撃する策略を用い、張魯を攻めるかのように見せかけます。
この動きは、予期せぬ結果を生みました。曹操に不信感を抱いていた馬超と韓遂が、まんまとこの計略にはまり、反乱の兵を挙げたのです。
曹操にとって、これは彼らを討伐する正当な理由ができたことを意味しました。
しかし、この曹操の動きに最も恐怖したのは、遠く益州を治める劉璋でした。
彼の領地は張魯のいる漢中に近く、もし曹操が張魯を倒せば、次は自分の番だと震え上がったのです。
臆病な劉璋の不安をよそに、彼の部下である張松と法正は、ある大胆な提案をしました。
「戦いは先手必勝です。曹操に取られる前に、先に漢中を占領してしまえば、益州は盤石な守りになります」
しかし、気の弱い劉璋には、自ら兵を出す勇気がありませんでした。
劉璋の裏切り者たち?劉備への密約
劉璋の性格をよく知っていた張松と法正は、さらに一歩踏み込みます。
「何も自ら兵を出す必要はありません。外部の力を借りて、張魯を攻めさせれば良いのです」
その相手こそ、彼らが密かに見込んでいた劉備でした。
この提案に「なるほど!」と膝を打った劉璋は、法正に四千の兵を与え、劉備を迎えに行かせました。
この時、劉璋は、法正と張松がすでに自分を見限り、劉備に寝返る決意を固めていたことなど、夢にも思っていませんでした。
劉備を迎え入れることに、他の多くの部下たちは猛反対しました。
その一人が、王累です。彼は城門に自分の体を逆さ吊りにして、必死に劉璋を説得しようとしましたが、張松と法正を信じきっていた劉璋は、彼の忠言を一切聞き入れませんでした。
法正は劉備に会うやいなや、驚くべき提案をします。
「劉璋を攻撃し、益州を奪いましょう。張松が内部から手引きをすれば、簡単に成し遂げられます!」
仁徳の英雄、ついに決断の時
突然の誘いに、劉備は戸惑いました。
これまで「仁徳」を掲げてきた彼にとって、受け入れてくれた劉璋を裏切ることは、大きな心の葛藤を生みました。
しかし、彼の軍師である「鳳雛(ほうすう)」こと龐統は、劉備の迷いを断ち切るように強く進言します。
「荊州は戦乱で荒れ果て、東には孫権、北には曹操がいます。しかし、益州は百戸に上る人口を擁し、土地は広く物資も豊かです。この地を手に入れれば、天下統一も夢ではありません!」
法正と龐統の熱い言葉に、劉備はついに決断します。
彼は信頼する諸葛亮と関羽に荊州の守りを託すと、数万の兵を率いて益州へと向かいました。
嵐の予感?劉備と劉璋、蜜月の終焉
益州に入った劉備は、劉璋から大歓迎を受けます。
惜しみなく贈られた品々、そして百日にもわたる盛大な宴会。
劉璋は劉備に兵馬と大量の軍用物資を与え、張魯を攻撃してくれることを頼みました。
劉備は北へ向かいましたが、すぐに張魯を攻めることはせず、葭萌関に留まりました。
彼はそこで民に慈悲深く接し、あっという間に地元の人々の心をつかんでいったのです。
そんな中、劉備にとってのチャンスが訪れます。
南下した曹操に攻められ窮地に陥った孫権が、劉備に援軍を求めてきたのです。
劉備はこれを口実に、劉璋に手紙を送ります。
「孫権は同盟者ゆえ見捨てるわけにはいきません。曹操が荊州を奪えば、次は益州に攻め入るでしょう。今や張魯よりも大きな脅威なのです!」
そして、劉璋にさらなる兵馬と物資の援助を要求しました。
この要求に、劉璋の部下たちは頭を抱えます。
「もし要求通りに与えれば、劉備の勢力はますます強大になる。だが断れば、彼を怒らせることになる…」
結局、要求の半分だけを送ることにしました。これに劉備は激怒し、「こんなにケチケチされては、命がけで戦えるものか!」と兵士たちの怒りを煽ったのです。
ちょうどその頃、張松が劉備に内通していたことが、彼の兄によって密告され、張松は処刑されます。
もはや引き返せなくなった劉備は、白水関を守る楊懐と高沛を殺害。
ついに、劉備と劉璋の間で、運命の戦いの火蓋が切って落とされました。
激戦の果てに。失われた鳳雛と新たな出会い
劉備は劉璋よりも優勢だったものの、予想外の苦戦を強いられました。
一年経っても、雒城を攻め落とすことができません。膠着した戦況を打開するため、荊州を守っていた諸葛亮が、張飛と趙雲を率いて援軍に駆けつけます。
張飛は勇猛果敢に先陣を切ると、巴東を落とし、江州では巴郡太守の厳顔を捕らえました。
張飛が「投降しろ」と迫ると、厳顔は顔色一つ変えずに言い放ちます。
「江州には首をはねられる将軍はいても、投降する将軍などおらん!」
この堂々たる態度に、張飛は激しく感銘を受け、厳顔の縄を解いて手厚くもてなしました。
厳顔もまた、張飛の仁義の深さに心を動かされ、心から彼に従うことを誓ったのです。
しかし、この戦いは大きな代償も伴いました。
優れた頭脳で劉備を支えてきた軍師、龐統が、雒城を攻める最中に矢に当たって命を落としてしまったのです。
劉備はかけがえのない鳳雛を失い、深い悲しみに包まれました。
成都陥落!劉備、ついに益州の主となる
悲しみを乗り越え、劉備は雒城をようやく攻め落とし、ついに益州の都である成都を包囲しました。
この時、張魯のもとに身を寄せていた名将、馬超が劉備に投降するという、大きな喜びももたらされました。
城内にはまだ3万の兵と一年分の食糧があり、徹底抗戦も可能でした。
しかし、劉璋は「これ以上戦えば民を苦しめるだけだ」と考え、抵抗をやめ、劉備に投降しました。
三年にもわたる激戦の末、ついに劉備は益州の領主となったのです。
この地を手に入れたことで、劉備は天下統一を争うための強固な本拠地を確立しました。
「仁徳」を貫く英雄が、時には非情な決断を下し、苦難を乗り越えて手に入れたこの勝利は、三国志の歴史を大きく動かし、「三国の鼎立」という新たな時代の幕開けを告げる、壮大な第一歩となったのです。
まとめ
こうして三年に及ぶ戦いの末、劉備はついに益州を手中に収めました。
これは単なる一地方の征服ではなく、天下三分の構図を形作る決定的な一歩でした。
曹操の策略から始まり、張松と法正の裏切り、龐統の死、張飛と厳顔の名場面、馬超の帰順――益州争奪戦はまさに「人間ドラマの縮図」。
そして劉備が手に入れた益州は、蜀漢の礎となり、後世に語り継がれる「蜀の夢」の舞台となったのです。
最後に
もしこの益州攻めが失敗に終わっていれば、劉備が「三国の一角」として立つことはなかったでしょう。
英雄たちの智略と葛藤が交差するこの戦いは、三国志を語る上で欠かせない最大の転換点のひとつです。
あなたは、もし劉璋が張松や法正の進言を退けて劉備を遠ざけていたら、歴史はどう変わっていたと思いますか?
