
「年老いた将に何ができる」
そう嘲る声が、どこか遠くで聞こえていた。だが、老将・黄忠(こうちゅう)は笑って受け流した。
彼の矢は、若者よりも速く、正確に敵の急所を射抜く。齢六十を超えてなお、その戦いぶりは火を噴くように烈しい。
西暦219年、劉備軍と曹操軍が漢中をめぐって激突した「定軍山の戦い」。この戦で黄忠が放った一矢が、蜀の命運を変えた。
今回は、数々の名将が乱立する三国志の中でも「晩年の輝き」を見せた黄忠の生き様を、定軍山の戦いを中心に辿っていこう。
漢中をめぐる攻防――老将の出番はこうして訪れた
荊州を得て勢力を拡大した劉備は、軍師・法正の進言を受け、魏の支配下にある漢中への進軍を決意する。
漢中は蜀と魏を結ぶ“要衝の地”。ここを制する者が、西の覇権を握ると言っても過言ではなかった。
対する魏は、曹操の腹心であり勇猛果敢な将・夏侯淵(かこうえん)が防衛を任されていた。彼は迅速な攻撃を得意とし、「疾きこと風のごとし」と称された名将である。
しかし、劉備軍には一人の老将がいた。長年戦場を駆け抜け、いまなお矢を握り続ける男――黄忠である。
定軍山の激戦――黄忠、老いてなお先陣に立つ
漢中での戦は一年以上に及んだ。両軍は一進一退の攻防を繰り広げ、山岳地帯の地形が戦いをさらに難しくした。
そんな中、法正は劉備にこう進言する。
「夏侯淵は勇ある将ですが、用兵の道には欠けております。いま、彼を誘い出せば勝機ありましょう。」
劉備は法正の策を受け入れ、定軍山のふもとに陣を築いた。表向きには守備を装いながらも、裏では密かに攻撃の準備を整えていた。
そして山頂には、老将・黄忠を潜ませる。黄忠は精鋭とともに、夜の闇に紛れて陣を張った。
「この老いぼれに、まだ一戦を託すか。」
彼はつぶやきながらも、口元には微笑みがあった。劉備の信頼がある限り、命を賭しても勝利を掴む――そう心に決めていた。
翌朝、魏の夏侯淵が全軍を率いて突撃してくる。劉備の陣営を一気に潰すつもりだった。だが、それこそが“罠”だった。
黄忠の号令が山頂に響く。
「今だ! 撃てぇぇぇッ!」
無数の矢が空を裂き、魏軍の背後を貫いた。太鼓の音とともに、山上から黄忠軍が一斉に突撃する。
夏侯淵は不意を突かれ、混乱の中で討ち取られる。魏軍は総崩れとなり、張郃がわずかな兵を率いて撤退した。
老将の矢は、見事に魏の中枢を射抜いたのだ。
劉備の信頼、曹操の後悔
この知らせを受けた曹操は衝撃を受けた。
夏侯淵は彼のいとこであり、幾多の戦を共にしてきた“勝利の象徴”でもあったからだ。曹操はかつて夏侯淵にこう戒めていた。
「一軍の将たる者、時に臆病でなければならぬ。勇気だけでは勝てぬのだ。」
だが、その言葉を胸に刻む前に、夏侯淵は戦場に散った。曹操は憤りと悲しみに駆られ、みずから軍を率いて漢中へ向かう。
しかし、劉備は地の利を活かして堅守に徹し、決して正面からの戦いに応じなかった。
両軍は一ヵ月にらみ合いを続け、やがて魏軍の士気は下がり始める。
そんなある日、曹操がふと「鶏肋(けいろく)」と呟いた。
「惜しいが、食えぬ」
つまり、漢中は価値ある土地だが、守り続けるほどの利がない――曹操の心中を表す言葉だった。
それを聞いた楊修がすぐに撤退準備を始めたという逸話も、この戦いを象徴している。
こうして魏軍は撤退し、劉備は漢中を手中に収めた。
「老将の矢」は蜀の運命を変えた
定軍山の戦いの勝利によって、劉備は漢中の支配権を得る。
そして数ヵ月後、自ら「漢中王」を名乗り、蜀の正統性を内外に示した。
この転換点の中心にいたのは、ほかでもない黄忠である。
彼の名はこの戦いを機に三国志の英雄たちと並び称され、「五虎大将軍」の一人に数えられた。
劉備軍における五虎将――関羽、張飛、趙雲、馬超、そして黄忠。
その中でも黄忠は最年長でありながら、定軍山では誰よりも激しく、誰よりも勇ましかった。
「齢を重ねても、心は衰えぬ。」
この信念こそが、彼をただの老将ではなく、“伝説”に変えたのだ。
まとめ
定軍山の戦いは、単なる戦略勝利ではなく、老将・黄忠の「生涯最後の輝き」を刻んだ戦いであった。
彼の矢が放たれた瞬間、劉備の漢中支配が確立し、蜀の未来が切り開かれた。
黄忠はその後まもなく病没するが、彼の名は「老いてなお盛ん」の象徴として今も語り継がれている。
人生の終盤であっても、信念を燃やし続けた男の生き様は、時代を超えて人々の心を打つ。
黄忠の矢は、定軍山の空を越え、今もなお私たちの胸に突き刺さる。
