
中国後漢末期、群雄割拠の時代。
華北の名門袁家の一族に生まれた袁術は、華麗な人生の幕を開けました。
嫡子としての誇り、高い官位、そして周囲からの期待。
しかし、その華やかな表舞台の裏では、兄・袁紹との確執、そして権力への異常なまでの渇望が渦巻いていました!!
名門の出身と傲慢な性格
袁術は字を公路といい、汝南郡汝陽県の出身である。
袁紹と袁術は、4代にわたり、3人の三公を出した名門、袁家の一族で、2人は異母兄弟でした。
兄の袁紹は家を出、叔父袁成の家を継ぎました。
父袁逢の家を継いだのが嫡子で弟の袁術です。
袁術は嫡子であることを鼻にかけ、内心では袁紹のことを「はしため(女中などのこと)の子」とばかにしていました。
袁紹の方が少し年上だったが、袁術の父・袁逢󠄀は司空をつとめるなど優秀な人物であったのに対し、袁紹の父親の袁成は袁逢󠄀におよばなかった。
袁成は五官中郎将(五官郎をとりしきる軍事に関する官職)にまでなったが、三公にはなれなかった。
それに袁紹の両親は若くして亡くなってしまっていた。
袁紹は両親が亡くなると官職を捨てて、洛陽に移り住み、毎日仕事もせずにさまざまな友人とつき合い、遊び暮らしていた。
そんな袁紹とは対照的に、若いころの袁術は正義感に富み、義理を重んじ、多くの貴族の子弟たちと交際していた。
親孝行で清廉な人物であるとして、汝南郡の推せんを受けた袁術は、河南尹(尹は地方長官の官職)に任命され、虎賁中郎将(虎賁という宿衛の兵士をとりしきる官職)となった。
袁術は袁紹をばかにしていたので、2人はあまり仲が良くなかった。
兄弟の絆が崩れた瞬間
反董卓連合が結成された頃、袁術と袁紹の間にはすでに微妙な緊張が漂っていましたが、その関係が完全に壊れるきっかけとなったのが、「誰を皇帝として立てるか」という重要な議論でした。
袁紹は、幼い献帝が董卓の支配下にあり、自由に動けない現状を打破するため、幽州牧の劉虞を新たな皇帝に立てるべきだと提案しました。
劉虞は名門の出であり、徳が高く、民衆からの支持も厚い人物でした。
袁紹の目には、劉虞が新たな指導者としてふさわしいと映ったのです。
この提案は、袁紹の正義感と愛国心から来るものだと考えられます。
しかし、袁術はこの提案を強く否定しました。
彼の心の中では、もし徳の高い劉虞が皇帝になれば、自分がその地位に就く可能性が永遠に閉ざされるのではないかという恐れが渦巻いていました。
袁術の野心は、劉虞の存在によって脅かされていたのです。そのため、袁術は感情を露わにし、兄の提案に真っ向から反対しました。
最終的に、袁紹の提案は曹操をはじめとする他の有力者たちの反対や、劉虞自身の拒絶によって実現することはありませんでした。
しかし、この一件を通じて、袁術と袁紹の間には決定的な亀裂が生まれました。
兄弟の対立はもはや避けられないものとなり、これ以降、二人はそれぞれ異なる陣営を率いることになります。
袁術は公孫瓚と手を組み、袁紹は劉表と協力して、お互いに対立する立場に立ちました。
この公然の対立は、兄弟であったはずの二人が、互いを仇敵とみなすまでに至る道のりの始まりだったのです。
玉璽を巡る狂気の覇権
孫堅が董卓討伐のために洛陽へ攻め入った際、偶然にも使用されていなかった井戸から発見されたのは、何世代にもわたって皇帝の権威を象徴する玉璽でした。
この宝物が存在することを知った袁術の心は、まさに狂気に駆られました。「自分こそが皇帝にふさわしい」との思いが、その瞬間に確信へと変わったのです。
だが、直接孫堅から玉璽を手に入れることができなかった袁術は、冷酷な策略を考えました。
孫堅が戦死した後、袁術は機を見計らい、孫堅の未亡人を捕らえ、彼女を人質に玉璽を奪い取りました。
彼は、玉璽を手に入れたことが、自らが皇帝になる正当な理由であると信じ、その野望を遂げようとしました。
しかし、この玉璽を巡る策略と野望は、周囲の人々に恐怖と不信を抱かせただけでした。
特に孫堅の息子である孫策は、袁術の無謀な行動に激怒し、ついには決別することとなりました。
それでも袁術は、誰が反対しようと耳を貸さず、ついには寿春で自ら皇帝を名乗り、即位してしまいます。
しかし、この偽りの皇帝としての生活は、次第に彼を腐敗させました。
贅沢の限りを尽くし、数百人もの妻や妾を侍らせ、豪華絢爛な衣装に身を包み、山海の珍味を貪り続ける日々。
兵士たちが飢えと疲れに苦しんでいるのを目にしても、袁術は自分の快楽だけを追い求めました。
その結果、彼の配下は次々と離反し、忠誠を誓う者は一人も残らなくなりました。
そして、袁術が呂布を攻撃するために兵を送った際、大将の韓暹や楊奉らは、戦場に到着するとすぐに寝返り、袁術の軍備を奪い取るだけでなく、逆に呂布と手を組んで袁術を攻撃しました。
このようにして、袁術の狂気に満ちた野望は、その結果として自らの破滅を招くことになったのです。
皇帝の座から奈落へ
袁術がみずから皇帝を名乗ったその瞬間、彼の運命はすでに破滅への道を歩み始めていました。
彼が新たな皇帝として即位したのも束の間、曹操が次なる標的に袁術を選んだことが、彼にとって致命的な一撃となったのです。
曹操軍が自分を討つために向かっているという噂が広がると、袁術は恐怖に駆られ、大将の橋蕤に蘄陽を死守するよう命じ、自分は荷物をまとめ、命からがら逃げ出しました。
しかし、曹操の軍勢は驚くほど速く進軍し、たちまち蘄陽を攻め落としてしまいました。橋蕤は無情にも斬首され、曹操は許都へと帰還しました。
寿春に戻った袁術でしたが、そこでも彼を待っていたのは飢えと絶望でした。
豪勢な暮らしを続けていたため、財産はすぐに尽きてしまい、彼は再び逃亡を試みます。
しかし、この時にはすでに袁術に味方する者は誰もおらず、彼は完全に孤立していました。
かつて自分を恐れた者たちも、彼に手を差し伸べることはなく、袁術の名声は地に落ちていたのです。
最後の頼みとして、彼は北の袁紹に助けを求めようとしますが、曹操はこれを見越して朱霊を送り、彼の進路を阻みました。
もはや行き場を失った袁術は途方に暮れ、飢えと孤独に苛まれる日々が続きました。
わずかな食糧で飢えをしのぎ、ある日、猛烈な暑さの中でせめてはちみつを口にしたいと願った彼。
しかし、その願いさえも叶わず、竹のむしろの上で彼は虚ろな目をして座り込んでいました。
「なぜ自分はこんなに落ちぶれてしまったのか…」袁術は深いため息をつきながら、自問自答しました。
皇帝を自称してからのわずか二年半の間に、彼はすべてを失い、夢も希望も砕け散ってしまったのです。
そしてその後、彼は病に倒れ、血を吐いて死を迎えました。
まとめ
袁術の生涯は、野心と傲慢がもたらす悲劇を物語っています。
名門の出身でありながら、その地位に甘んじ、周囲との関係を築くことができずに、最後は孤独な死を遂げました。
袁術の物語は、私たちに、権力や名声に振り回されることなく、周囲の人々との繋がりを大切にすることの重要性を教えてくれますね!!